道家(どうか)の思想の原点は、いうまでもなく老子が著したといわれる『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。
では、老子とはどんな人物で、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。
老子は、司馬遷の『史記』によると「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」となっている。
また『史記』には、老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。だが、風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。
だから、もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、紀元前五世紀頃の人だということができる。
実在する人物であったならというのは、老子は生没年代も明確ではなく、また、老子道徳経の内容や文体を考察すると、一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。
しかし、老子が実在の人物でないとしても、それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。逆に、儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、老子道徳経は、多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、真理をついた思想ということができる。
この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。これは「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。
つまり、人間などというものは、宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。
しかし、人間はそういうことも分からずに、さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、自分のものなど何もない。これに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、人生はもっともっと楽しくなる。これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。
これまで日本では、この老子の思想というものはあまり重要視されてこなかった。孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。
封建時代という階級社会では、修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が受け入れられるはずがなかったのである。
しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。なぜだろうか。それは、今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。
答えは一つ、「健康で楽しく生きること」ではないのか。それが人間としての生き方の原点ではないのか。それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。
まさしく老子は生きているのである。
今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。
なお、老子道徳経の“道徳”とは、宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、万物はその道から本性(徳)が与えられる、というところから出たものである。モラルの意味ではない。
1989年11月
早島正雄
※道家道学院初代学長 早島天來(正雄)著 「定本・老子道徳経の読み方」より
2013年5月現在、今や「老子」を解説する本は沢山出ており、テレビでも老子を紹介する番組が放映されるようになりました。
上記の言葉にもありましたように、以前は日本で老子はあまり注目されていなかったようです。
そんな中、道家道学院初代学長 早島天來は、老子の説く道家思想を実践で学ぶ教室として、日本道観 道家道学院を開設し、
日本において老子哲学の普及に努めて参りました。
現代社会では、科学技術や経済も大きく成長していますが、
しかしその反面、環境破壊や犯罪、そして自然災害までも、これまで以上に私たちの暮らしに大きな脅威を与えています。
そんな世の中で早島天来は、人々が生涯健康で、我執のない幸せな人生を送れるように、
「洗心術」という形で老子を誰でも実践できるよう解りやすく説き、また、健康術でもある気のトレーニングを学べるように
1980年、日本道観『道家道学院』を設立したのです。
今まさに世界中で、自然環境の破壊や地球温暖化現象が進み、
それらが確実に実感を持って私たちの生活に脅威を与え始めました。
記憶にないような集中豪雨や洪水が起き、 そして人間の抵抗力を越えていると思われるほどの猛暑に襲われるなど、 自然環境はどんどん過酷になっていきます。
そんな中で、日本をはじめとする先進諸国では、高齢化社会の問題も深刻となっていますが、 重ねて日本では、多くの人が人生に行き詰まりを感じて、自ら命を絶つ人の数は減る様子もなく、 これまでの経済至上主義的方向性を見直さざるをえない状況にあります。
「もっと早く、もっと便利に、もっと豊かに」という、私たち人間が求め続けた欲望の果てにある世界は、 本当に幸せな世界なのでしょうか。
また、昔に比べてずっと豊かになった私たちの心の中は、本当に幸せに満ちているのでしょうか。
そう問いかけざるを得ません。
私たちは高度成長の時代を走り抜けてきましたが、今こそ立ち止まって、これからの行く道を、 人類の一員として、見つめ直す時が来たのかもしれません。
そんな状況の今だからこそ、何よりも必要とされるのが、紀元前に中国で書かれた、 たった五千言の、しかし限りない大著である『老子道徳経』、別名『老子』なのです。
なぜならば、八十一章から成る、この『老子道徳経』が説いていることは、決して机上の哲学ではなく、 また頭だけの理論でもなく、実践して人生を幸せに生きてゆくという目的をもって語られている、 無為自然の哲学のエッセンスであるからです。
しかも「水」や「女性」や「赤子」といった、一見弱者とみられるものの持つ本性に本当の強さを見出し、 そこに人間の本来の生き方を示していることは特筆に価します。
そのような特質をもつ、中国古代の叡智を凝縮した『老子』は、
現代人が今こそ学ぶべき哲学だということが出来るでしょう。