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『天來大先生は道学的にも哲学的にもこれを理解し、もちろん養生の大家として、道教的な面も体得されて、そして実際に悟った人として老子を書かれている。
だから本当の言葉がさらさらと流れるようにわいてきて老子の本質をついた解説をされているのです。
〜中医文化学者 林中鵬教授より』
早島天來大先生 御生誕105周年を記念して、『定本「老子道徳経」の読み方』の解説をお書きいただいた林中鵬教授と道家道学院 早島妙聴学長との対談をご紹介いたします。
王弼と並び輝く老子解釈をした天來大先生
- 早島妙聴学長
- 歴史的なことだけでなく、天來大先生の語られる老子と王弼の註釈との比較までしていただき、また天來大先生の老子解釈に最高の賛辞をいただけましたことは、とても幸せなことで心から感謝しております。
- 林中鵬教授
- 私はこれまで河上公、そして王弼、傳奕、馬王堆帛画など、合計百冊以上の老子のバージョン(版)を読みましたが、その中でも、実際内丹や導引の修行をかさねられた天來大先生が、悟りの境地から読み解かれたこの『「老子道徳経」の読み方』は、きわめて貴重な解説であると感じます。
- 早島妙聴学長
- 本当にありがとうございます。
私達弟子は皆まだまだ修行ができていないですが、天來大先生の書かれた老子はそんな私達がよくわかる、納得できる平易な文章になっていることが一番ありがたいことなのです。
そして初めて日本道観に悩みをかかえてこられた方にもわかり、読み進んでいくうちに悩みがなんだか軽くなる、取れてしまうような、そんなだれもがす〜っと理解できる老子なのです。
それは、今、林先生がおっしゃってくださったように、道に生き、道を体得された天來大先生だからこそ書くことができた老子だったのだと思います。
- 林中鵬教授
- 解説にも書きましたが、まず老子を八十一章に章わけした河上公の功績があります。
それから百年余りたってその内容をより深く理解して解説した王弼が最も有名です。王弼は老子の著作を『道徳経』と命名したのです。彼は天才ではありましたがとても若くして亡くなり、そして道家や道教、養生の道の修行をしていなかったために、やはり理解できる範囲は限られていました。いくら天才でもそれは仕方のないことなのです。
それに対して天來大先生は、一生をかけて道学の真髄を理論的にもまた実践的にも修行されて、奥義を極め道を体得された上で老子を読み解き、しかも一般の人にとてもわかりやすく語りかけているところがすばらしいですね。数多くの人が中国の近代歴史の中で、老子に 註釈を付けておりますが、「天人合一」の角度からこれほど秀でた註釈はないと思います。
- 早島妙聴学長
- そんなふうにお褒めをいただいて、これまで天來大先生の老子がとても読みやすくわかりやすいと、大事に読ませていただいて 来ましたが、これからはより大事にしてゆきたいと思います。
- 林中鵬教授
- そうですね。道教の道士も老子について解読しているし、また哲学者も、古典の研究者も解読していますが、皆それぞれの立場で少しかたよったその専門の方面からの見方から老子を読み解き解説をしているのです。
たとえば道教の道士は宗教的にかたよった見方をしており、哲学の専門家は哲学の面からだけしかとらえていないのです。
ところが天來大先生は道学的にも哲学的にもこれを理解し、もちろん養生の大家として、道教的な面も体得されて、そして実際に悟った人として老子を書かれている。だから本当の言葉がさらさらと流れるようにわいてきて老子の本質をついた解説をされているのです。ですから私は今回の解説の中に、「王弼解説に足りなかった部分をすべて補った」と書かせていただいたのです。
大道廃れて仁義あり
- 林中鵬教授
- ところで、天來大先生は老子の語る仁義ということについて、どのように理解されておられましたか?
- 早島妙聴学長
- 天來大先生は、世の中で仁義などという言葉が取りざたされ、それを行うことが人間にとってすばらしい生き方だなどと声高に言われるようになるということは、すでに仁義が人間社会の中で薄れて、だれも考えなくなっているので、それではいけないと仁義を取り出すのである。
道家は当然人間が生きる道として仁義より大きな天地自然の法則があり、仁義そのものもそこに含まれている。だから仁義などということを取り上げて前に出すこと自体、仁義が無い世界だということなのだよ。そうおっしゃっておられました。
- 林中鵬教授
- それはすばらしい。本当にその通りです。
儒教の思想の中で、仁、義、礼は高度に強調されたのです。
老子は「徳を失いて而る後に仁あり。仁を失いて而る後に義あり。義失いて而る後に礼あり」と指摘しました。仁、義、礼は道に後置しました。
後世の儒家はそのため老子が礼儀を軽視することを攻撃したことがありました。ところが、老子はだれよりも仁、義、礼、を大切にしています。老子は「我に三宝あり:一に曰く慈、二に曰く倹、三に曰く敢えて天下の先と為らず」(道徳経第六十七章)慈これは大仁、倹は大義、天下に先とならないことはすべての「礼」の出発点であります。しかしもし「道」の「仁、義、礼」が理解できないと、「偽の仁、偽の義、偽の礼」の温床になるかもしれない。だからこそ、道学の仁義は深く、さらなる真実を強調し、且つ、内心の道から発するものなのです。もっと本物の深い仁義が道学の中にはあるのです。
- 早島妙聴学長
- 道学の仁義は本当に奥深いということでね。
天來大先生が説かれた「欲」とは
- 林中鵬教授
- では天來大先生は、欲についてどのようにとらえておられたのでしょうか?
- 早島妙聴学長
- はい。よく『老子道徳経』を読んで、「無欲」ということから、道家では欲をもたない、持ってはいけないのでしょうか?と質問する人がいるのですが、人間が生きてゆく上で欲はとても大事なものです。もっと出世したい、もっとお金が欲しいといった欲を全くもたないで、 この世の中を生きてゆくことはできません。ただし、その欲に執着するなと教えられたのです。
執着、つまりその欲が達成されなかったら苦しい、つらい、イライラする、こういった思いそのものが我執であり、無為自然でないということなのです。
物事を達成するには全力をつくす。ただそれがまだなされなかったり、自分がそこに到達しなかった、としたらまた努力する。イライラせずにその事実を受け入れてまた一歩進む、また時を待つという、無為自然の生き方をしなさい、といわれたのですね。老子が言っているのは、枯れ木の悟りなんかじゃない。生きている以上、皆が積極的に前を向いて、楽しく生かされるのがよいのだと。
そして、同じ欲を持つなら宇宙一杯の欲をもて、と言われました。宇宙一杯の欲?とても大きくて、どれだけのものか、私にもまだわかりませんが、そんな宇宙一杯の欲のレベルになると、自分だけが良ければいいとか、自分の家族だけが良ければいいとか、自分の会社だけ、また自分の国だけが良ければいい、なんていう狭い世界を超越してしまうのです。宇宙一杯の欲、本当に大きな言葉です。
- 林中鵬教授
- すばらしいですね。本当にその通りです。私も老子を理解する上で、有欲と無欲ということはとても大事なポイントだと思っております。
「天人合一」と「道」について
- 林中鵬教授
- これはとても深い認識です。天人合一は『道徳経』の核心概念です。
老子は「人法地、地法天、天法道、道法自然」と言いますが、 「人」「地」および「天」 とは、それぞれ「小さい宇宙」「中宇宙」および「大きな宇宙」という意味です。そして「法」とは「制約される」あるいは「制約をうける」の意味です。人の行為は天と地に制約されています。これを押し広げて解釈すると、社会、国家あるいは世界のことを指すと言えます。
そして宇宙の欲望とは何でしょうか?これは、「道」です。人の欲は修行を重ねて「宇宙の欲」となります。それはつまり、通常に言われる「合于道」です。老子は「道法自然」、即ち道が無欲だといいます。人々はそんな境地に到達すれば、いわゆる「欲」は即ち「無欲」とも言えるようになるのです。
- 早島妙聴学長
- 天來大先生のおっしゃる宇宙一杯の欲とは、社会や国家の制約や常識のとらわれのない、時間と空間を超えた「道」に他ならないということですね。
大変すばらしいお話をありがとうございました。
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