◆刊行の言葉 早島妙聴
◆まえがき 早島天來(正雄) 立ち読みする
◆あとがき 早島天來(正雄)
◆日本道観の老子探究 早島妙聴
◆解説 林 中鵬
◆付録『老子道徳經』原文
道家(どうか)の思想の原点は、いうまでもなく老子が著したといわれる『老子道徳経』(一般には『老子』といわれている)である。
では、老子とはどんな人物で、老子道徳経とはどんなものなのだろうか。
老子は、司馬遷の『史記』によると「楚(そ)の苦県(こけん)の厲郷(らいきょう)、曲仁里(きょくじんり)の人で、姓は李(り)氏、名は耳(じ)、字(あざな)は伯陽(はくよう)、おくりなして聃(たん)という」となっている。
また『史記』には、老子に教えを請うた孔子が、
「鳥は飛ぶもの、魚は泳ぐもの、獣は走るものくらいは私も知っている。走るものは網でとらえ、泳ぐものは糸でつり、飛ぶものは矢で射ることも知っている。だが、風雲に乗じて天に昇るといわれる竜だけは、私もまだ見たことはない。今日、会見した老子はまさしく竜のような人物だ」といったと記されている。
だから、もし老子が実在する人物であったなら、孔子と同じ時代、紀元前五世紀頃の人だということができる。
実在する人物であったならというのは、老子は生没年代も明確ではなく、また、老子道徳経の内容や文体を考察すると、一人の人物の頭脳から生まれたものとは考えにくく、その頃の道家の思想を集大成したものと考えられるからである。
しかし、老子が実在の人物でないとしても、それによって老子の思想的価値が下がるわけではない。逆に、儒教が孔子、仏教が釈迦、キリスト教がイエスの主観から生まれたのに対し、老子道徳経は、多くの頭脳の集積から生まれただけに、より普遍性を持ち、真理をついた思想ということができる。
この老子の思想の中核を成すものが「無為自然」の思想である。これは「宇宙の現象には、人の生死も含めて、必然の法則が貫徹していて、小さな人為や私意は入り込む余地はないのだ」という考え方が基本になっている。
つまり、人間などというものは、宇宙から見ればゴミのような小さい存在であり、人生は人の力ではどうにもならない自然の一コマに過ぎない。
しかし、人間はそういうことも分からずに、さまざまな我執(がしゅう)に振り回されてあくせくしている。人は生まれる前は“無”、そして死んでしまえばまた“無”に帰るわけで、自分のものなど何もない。これに気づき、くだらない見栄や欲を捨てれば、人生はもっともっと楽しくなる。これこそが人間として最高の生き方であるという考え方だ。
これまで日本では、この老子の思想というものはあまり重要視されてこなかった。孔子の儒教に比べて冷遇されてきたとでもいうべきだろうか。それは、時の権力者にとって、すべてにおいて儒教のほうが都合がよかったからである。
封建時代という階級社会では、修身や治国を「……してはいけない」調で説く儒教の教えは歓迎されても、「我執を放(ほ)かして楽しく生きましょう」という思想が受け入れられるはずがなかったのである。
しかし、現在道家の思想が静かなブームを呼んでいる。なぜだろうか。それは、今日あふれるほどの物質文明の恩恵をこうむるあまり、精神的な拠り所を失っている人々が非常に多いからである。人生とは何なのか、幸福とは何なのかを考えた時、はたして明確な答を示してくれるものがあるだろうか。富、名誉、そんなものは死んでしまえば何にもならない。
答えは一つ、「健康で楽しく生きること」ではないのか。それが人間としての生き方の原点ではないのか。それを前面に打ち出してうたってきたのが道家であり、老子なのだ。
まさしく老子は生きているのである。
今日ほど老子の思想が注目されている時代はない。本書は、誰にでも分かるようにやさしく老子道徳経を解説したものである。なお、老子道徳経の“道徳”とは、宇宙には人為の及ばない法則(道)があり、万物はその道から本性(徳)が与えられる、というところから出たものである。モラルの意味ではない。
一九八九年十一月
早島正雄
≪老子道徳経 一章 原文≫
道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観(み)んと欲し、常に有はもってその徼(きょう)を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂(い)う。玄のまた玄衆妙の門なり。
≪老子道徳経 一章 現代語訳≫
一章は、全八十一章に一貫して流れる老子の思想を総括する最も重要な章である。この章を正しく理解するには、冒頭の「道」をどう解釈するかにかかっている。
道には「天の道」と「人の道」がある。天の道とは、老子が説くところの、小賢(こざか)しい人知の及ばない無為自然の道であり、人の道とは、儒教などが説く、いわゆる“べからず集”の道だ。
一章でいう道は、この「人の道」をさす。つまり「人が道と名づけた道は、天の道ではない。だから永遠不変の道ではない」と、老子はいっているのだ。
道徳にしても常識にしても、しょせんは人がつくったものだ。そうした人為の自己規範に縛られて、自分自身で苦しんでいるのが人間なのだ。
では、その自己規範は絶対的なものだろうか。答えは「ノー」である。たとえば、国や民族が違えば習慣も考え方も全部違ってくる。親子や職場の人間関係も同様で、親子の断絶というが、それは煎じつめれば育った環境や教育の差に過ぎない。
職場においても、世代による価値観の差はいかんともし難いものである。そこに気づかずに、自分の考え方を至上と思って相手に接すれば、断絶や衝突が起きるのは当然だろう。
人の道とは、このようにわずか数年の間にこれほど変わってくるものである。その最たるものが権力者による規範、すなわち法律といってよいだろう。「朝令暮改」とよくいわれるが、人為の規範がいかに移り気であるかを物語っている。
では、老子はどんな生き方をせよといっているのか。このことについてはおいおい述べていくが、要は無為自然の生き方、換言すれば、人為の道に固執して自分自身を苦しめるような愚かな考え方を放かすことだ。自分の考え方が正論だと思えば、相手も同じように考えるのは当然だろう。
人間は古代ギリシャの時代から真理を求め、多くの哲学者がいろいろな学説を打ち立ててきたが、はたしてその中に真理といわれるものがあっただろうか。偉大な哲学者といわれるカント、ヘーゲル、マルクスにしても然りである。宗教も然り。今日世界で起きている紛争の多くが、宗教がらみであることを見ても、その説く道の虚しさが分かるだろう。
よく「老子は道徳も常識も否定するのか」という人がいるが、これも間違いだ。老子の思想を実践する道家には、否定はない。固執しないことが大切なのである。道家では、これを「我執を放かす」という。人間は何事もこだわるから苦しくなるのであって、執着を捨てれば人生は楽しくなる。
「名の名とすべきは……」は、道が分かればもう説明するまでもないだろう。名とは“言葉”という意味もあるが、名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。道の対句として受け止めればよい。
「無名は天地の始め……」は、万物の生々を説いたもので、「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」(四十章)という、老子の「無の思想」を表現したものだ。
有であることをとことん突きつめていくと、その先は未知とか無限とかしかいいようのない世界になる。その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」だ。
もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はない。無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから生まれている。この有無が渾然とした世界が「玄」だ。玄とは「玄関」の意味で「玄のまた玄」は夜空のような限りない深さを示し、そこから万物が生まれてくる。
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