『老子』には、「水のように、いかようにも姿や形を変え、低きに流れ、そして自己を誇ることのない姿こそが、最高の生き方だ」ということが記されています。
それが『老子』第八章にある、「上善(じょうぜん)は水の如し」という言葉です。
あなたが、たとえば苦手な上司との関係や、あるいは家族関係や、近所づきあいなどで苦労しているような場合は、この「水のようになる」という言葉を知っておいてほしいのです。
水は、沸騰して水蒸気になれば、エネルギーを生み出します。凍れば、その上を歩くこともできます。また源流から湧き出た水は、川となって海へいたり、あらゆる生命の源になります。嵐ともなれば、すべてを飲み込むほどの大きな力をもちますが、その一方で、小さなコップの中にもするりと入ります。まさに変幻自在です。
この「上善は水の如し」という言葉は、「水はよく万物を利して争わず」と続きます。
もっとも尊い善とは、水のようであって形がありません。だからコーヒーカップの中に入ればカップの形になり、川ならばさらさらと流れます。隙間のある容器に入れれば、どんなに小さな穴でも、そこからちゃんと通り抜けますし、大きな船を浮かべる大海にもなります。一度猛り狂ったならば、村ひとつを流してしまうほどの力もあります。
「水になる」というのは、この自由自在な水のように、自分らしくありながら、まず相手に沿うという、融通無碍(ゆうずうむげ)の生き方、考え方です。
たとえば、上司と意見の相違があったとしても、「違うでしょ、そんなはずはありません」などとあらがわないことです。そうではなく、まず、「ああ、そうですね」と、上司という“器”にいったん沿ってみるのです。
満杯の水の中に、腕を入れたときのことを想像してみてください。水は少々波立ちますが、腕さえ出せば、水面はやがて元通りになります。このように、水のような心であれば、苦手な上司の言葉という“腕”でかき回されたとしても、壊れることもなく、傷つくこともないのです。