老子道徳経 第一部 人の道、天の道とは何か

一章 人の道は固定したものではない

≪老子道徳経 一章 原文≫

道の道とすべきは常の道にあらず。名の名とすべきは常の名にあらず。無名は天地の始め、有名は万物の母なり。故に常に無はもってその妙を観(み)んと欲し、常に有はもってその徼(きょう)を観んと欲す。この両者は同出にして名を異にす。同じく之を玄と謂(い)う。玄のまた玄衆妙の門なり。


≪老子道徳経 一章 現代語訳≫

一章は、全八十一章に一貫して流れる老子の思想を総括する最も重要な章である。この章を正しく理解するには、冒頭の「道」をどう解釈するかにかかっている。

道には「天の道」と「人の道」がある。天の道とは、老子が説くところの、小賢(こざか)しい人知の及ばない無為自然の道であり、人の道とは、儒教などが説く、いわゆる“べからず集”の道だ。
一章でいう道は、この「人の道」をさす。つまり「人が道と名づけた道は、天の道ではない。だから永遠不変の道ではない」と、老子はいっているのだ。
道徳にしても常識にしても、しょせんは人がつくったものだ。そうした人為の自己規範に縛られて、自分自身で苦しんでいるのが人間なのだ。

では、その自己規範は絶対的なものだろうか。答えは「ノー」である。たとえば、国や民族が違えば習慣も考え方も全部違ってくる。親子や職場の人間関係も同様で、親子の断絶というが、それは煎じつめれば育った環境や教育の差に過ぎない。

職場においても、世代による価値観の差はいかんともし難いものである。そこに気づかずに、自分の考え方を至上と思って相手に接すれば、断絶や衝突が起きるのは当然だろう。

人の道とは、このようにわずか数年の間にこれほど変わってくるものである。その最たるものが権力者による規範、すなわち法律といってよいだろう。「朝令暮改」とよくいわれるが、人為の規範がいかに移り気であるかを物語っている。

では、老子はどんな生き方をせよといっているのか。このことについてはおいおい述べていくが、要は無為自然の生き方、換言すれば、人為の道に固執して自分自身を苦しめるような愚かな考え方を放かすことだ。自分の考え方が正論だと思えば、相手も同じように考えるのは当然だろう。

人間は古代ギリシャの時代から真理を求め、多くの哲学者がいろいろな学説を打ち立ててきたが、はたしてその中に真理といわれるものがあっただろうか。偉大な哲学者といわれるカント、ヘーゲル、マルクスにしても然りである。宗教も然り。今日世界で起きている紛争の多くが、宗教がらみであることを見ても、その説く道の虚しさが分かるだろう。

よく「老子は道徳も常識も否定するのか」という人がいるが、これも間違いだ。老子の思想を実践する道家には、否定はない。固執しないことが大切なのである。道家では、これを「我執を放かす」という。人間は何事もこだわるから苦しくなるのであって、執着を捨てれば人生は楽しくなる。

「名の名とすべきは……」は、道が分かればもう説明するまでもないだろう。名とは“言葉”という意味もあるが、名にしても言葉にしても、人間がいて初めて存在するものだ。道の対句として受け止めればよい。

「無名は天地の始め……」は、万物の生々を説いたもので、「天下万物は有より生じ、有は無より生ず」(四十章)という、老子の「無の思想」を表現したものだ。

有であることをとことん突きつめていくと、その先は未知とか無限とかしかいいようのない世界になる。その無こそが、万物の生々を司る根源であり、そして、有はまた常に無に戻ろうとする働きがあるとするのが、老子の説く「無の哲学」だ。

もともと無であることを知れば、これほど楽な生き方はない。無所有、無我執、無差別という老子の思想は、こうした有無を同根とするところから生まれている。この有無が渾然とした世界が「玄」だ。玄とは「玄関」の意味で「玄のまた玄」は夜空のような限りない深さを示し、そこから万物が生まれてくる。

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